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日日日影新聞 (nichi nichi hikage shinbun)

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梅原猛さんのこと。

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哲学者・梅原猛さんが115日に

93歳で亡くなられました。

梅原猛さんは尊敬する人でした。

雲の上の人でしたから

お会いしたことはありませんでしたが、

一方的に

とても親しみを感じていました。


いくつかの側面から・・・。


一つ目は、

仙台市出身で同じ東北生まれであること。


二つ目は、

25年ほど前に出会った著書

「隠された十字架--法隆寺論」を読み

感銘をうけたこと。

当時、僕なりに

法隆寺が日本の中で

最も好きな建築であり、

国宝建造物に興味を持ち始める

きっかけとなった建築であったことから、

夢中になって読んだことを覚えています。


三つ目は、

僕の「建築の基礎」である

小説家・劇作家の

井上ひさしさん(19342010)と

共通した点があること・・・。

同じ東北の生まれで、

日本ペンクラブ会長を共に務めたこと。

13代・梅原猛さん、14代・井上ひさしさん)

そして共に「九条の会」の呼びかけ人だったこと。




四つ目は、

尊敬する建築家・吉村順三の

設計のいくつかの工事を担当した

尊敬する名棟梁・中村外二(19061997)が

梅原猛さんの家の工事を

おこなったこと(設計は横内敏人氏)。

驚くべきことに梅原猛さんの住宅には、

法隆寺の古い柱が再利用されています。


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僕の本棚には、

梅原猛さんの著作が並んでいます。

「隠された十字架 法隆寺論」は2冊あります。

「森の思想が人類を救う」という本にも

少なからず影響を受けています。


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井上ひさしさんの著作も数多く並んでいます。


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純粋無垢なロマンチストで、

存在そのものが天才だった・・・

と瀬戸内寂聴氏。

(日経朝刊文化欄20190116


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憲法や9条には

「超近代」の理想が含まれている。

(毎日朝刊20190115


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2011年には、

東日本大震災復興構想会議の

特別顧問を務めた。

(毎日朝刊20190115


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1972年に「隠された十字架法隆寺論」を出し、

73年には万葉歌人の

柿本人麻呂は流刑死したとする

「水底の歌--柿本人麻呂論」を刊行。

通説を覆す独創的な論は

「梅原古代学」と呼ばれ、

大きな反響を呼んだ。

(朝日朝刊20190115


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権威と戦う姿勢貫く。

(朝日朝刊20190115


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独創し続けた巨人。

(毎日朝刊社説20190116


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梅原さんの「反主流」。

「梅原猛、恐るべし」。わたしがそう思ったのは著書「隠された十字架法隆寺論」を読んだ時のことだ。いつのことだったか記憶は定かではない。

だが、「現在の法隆寺は聖徳太子の怨霊鎮魂のために建てられた」という大胆不敵な説と、それを補強する数々の「証拠」の積み上げに、一気に引き込まれたことを覚えている。

(毎日朝刊20190119「土記」青野由利記者の記事)

まさに僕も青野記者と同じような感想をもちました。


青野さんは毎日新聞記者の中で

好きな人のひとりです。

僕は新聞を読むのが趣味と

言っていいぐらいとても好きで、

昔から「記者」で読みます。

日本経済新聞では

田勢康弘を好きなだけで

株価などまったく興味がないのに

何年も購読していました。

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梅原猛さんとは直接関係がありませんが、

名棟梁・中村外二が手がけた

吉村順三設計の植田邸。

中村外二は、吉村順三設計の

ニューヨーク郊外に建つ

ロックフェラー邸の内装工事も担当しています。


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さて、

梅原猛さんは哲学者として

語られることがほとんどだと思いますが、

設計・横内敏人氏、

施工・中村外二による

梅原猛邸について

振り返ってみようと思います。

振り返るにあたって

建築雑誌・住宅建築に

「若王子の家」という名で掲載された

横内敏人氏の文章を引用してみたいと思います。


梅原猛さんの深い思想のように

場所と家の

壮大な物語が語られています・・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●家の歴史とその魅力


この家のある京都若王子にはかつて後白河法皇の別荘があったと言われている。

その場所は詳しくはわかっていないが、この家の敷地内にある池は室町期の古地図にはすでに載っているほど古く、言い伝えられているその「玉鏡の池」という美しい名前からしてもこの敷地こそその別荘があったところではないかと思わせるものでものである。

実際に山ふところにいだかれ水に恵まれたこの敷地は、風水の理にもかなっており、貴族の別荘があったとしても、何らおかしくない落ち着いた風情を持っている。

そして明治中期にこの地の魅力に引かれ、ここを隠居の地と定めたのが古郷時侍氏である。

古郷氏は原三渓に長年大番頭として仕えた人物で、当時稀有な茶人として知られた原三渓の影響で、古郷氏自身も相当な数寄者だったらしく、茶席のある侘びた構え隠居を建てるために、かねてより各地で解体された数寄屋の古材を取集していたという。

現在の家はそうした2軒の古い数寄屋を玄関でつなぐ形で古郷氏がこの地に再生したものである。

従って柱など主な材料は300年以上前の元禄期のものがそのまま使われている。

家の細部を見るとこの家に対する古郷氏の思い入れの深さが偲ばれるが、氏は数年間ここで暮らしただけで他界していまい、この家はその後哲学者の和辻哲郎氏に引き継がれる。

京都大学で教鞭を取った9年間を和辻氏はこの地ですごし、年代的に見ても名著「風土」はこの家で書かれたものと思われる。

しかし氏は意外にも住まいに関心が少なかったらしく、その間に建物は随分荒れてしまったらしい。

その後この家は岸田劉生の親友であり彼のパトロンであった洋画家の岡崎桃乞氏により長く住まわれることになる。

茶を心得た岡崎夫妻は、この地とこの家をこよなく愛し、庭と家とを今の状態につくりあげ、行き届いた手入れでそれを維持した。

そしてその次にこの家を受け継いだのが哲学者で現在の家主である。

(~中略~)

最大の課題は、法隆寺の柱をどうするかであった。

この柱は法隆寺の昭和の大修理の際に市場に出されてもので、大工の中村外二氏が長年所有していた。

縁あって氏に今回の改築の施工をお願いに行ったところ、独自の法隆寺論を著作に持つこの施主の家なら是非使ってくれと頼まれてきたものである。

直径8寸、800年ほどの前の鎌倉期の材だと言う。

表面は黒々と風化し、威風堂々とした存在感をもつこの柱を、家の中で最も煩雑なダイニングキッチンという場でいかに用いるか、それが課題であった。

初めは床柱のように鑑賞の対象として用いることも考えたが、結局、いくら文化財的価値があっても、柱は柱として屋根を支えるというその本来の役割を持たせてあげる方が、柱にとってはより幸せであろうという結論に達し、最終的には既存屋根の桁の出隅を支える、この家で最も重要な柱として用いることになった。

(~後略)


(住宅建築より引用・・・)



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梅原猛邸のダイニングキッチン。

太い丸柱が法隆寺の柱。

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梅原猛邸の玄関。


写真は住宅建築からの転載。

写真は建築写真家の畑亮さん。


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# by y-hikage | 2019-01-20 16:08 | 日影アトリエの本棚 | Comments(0)