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日日日影新聞 (nichi nichi hikage shinbun)

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2018年 10月 31日 ( 1 )

朝香宮邸の建築・その3

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東京白金に建つ朝香宮邸は

1933年(昭和8年)に

宮家の朝香宮鳩彦王と

妻・允子の住居として建築されました。

妻・允子(のぶこ)は

明治天皇の第八皇女です。

朝香宮は1922年(大正11年)に

フランスに渡り、3年間遊学します。

この時期ちょうどパリで開かれていた

アール・デコ博覧会に出向き、

フランスの工芸や住居の

デザインに目覚めます。

大正14年に帰国した夫妻は、

結婚このかた住みなれた

高輪の純和風の住宅に満足せずに、

パリ仕込みの生活の夢を実現するべく、

結婚の際に朝香宮へ

下賜(かし)された白金台の

御料地(天皇家の土地)に、

朝香宮邸を建築することになります。

設計は宮内省の

内匠寮(たくみりょう)の権藤要吉。

インテリアデザインを

パリのアンリ・ラパンが担当しました。

設計中の様子を

朝香宮鳩彦王の第二女子の

大給湛子(おぎゅうきよこ)さまは

インタビューに答えながら

このように語っています。


 ○ ○ ○


-----まず、朝香宮家についてお話しいただけますでしょうか。


大給:朝香宮家というのは、父朝香宮鳩彦が明治39年に明治天皇の特旨によって創立された宮家で父は第一代目でございます。母允子は明治天皇の八女として生まれ、明治43年の結婚に際し、この白金台の土地を賜ったと聞きますので、この白金の、「朝香宮邸」称される建物は母があったがためにできたようなものといえるのではないかと思います。


-----朝香宮邸はどういった事情で建てることになったのですか。


大給:白金の家(朝香宮邸)に引っ越すまでは、現在の高輪パシフィックホテルのある土地にあった宮内省のものだったお家に住んでおりました。それは非常に古い建物で、私はあまり覚えておりませんが、大正12年の震災で洋館がひどく傷みまして、全部取り壊しました。残った日本館と、それから取り壊した跡にバラック建てみたいなものをちょっと建てまして、兄たちの部屋とか、小さい客間や事務をとる「役所」等ができておりました。

いまでもそうでしょうけれど、当時はどの宮様方もみんな外国からのお客様、大・公使等を自邸にお招きしておりましたのに、我が家にはお招きする部屋もないような状態でございました。それで白金の土地をいただくことになっていましたので、あちらの方をお招きしても恥ずかしくないような家を建てたいと思い、それで建てたのだと思います。

白金の家を建てますについては、私はまだほんの小学生ぐらいでしただから、あまりよく覚えておりませんけれども、宮内省の権藤さんとか、そういう方々いらして、うちの事務官とか、主だった者と両親がテーブルをかこみいろいろと相談しているのは見ております。

それから、フランスからしょっちゅう手紙が来ておりました。おそらく建築に携わった方からの手紙ですね。そのフランス語の手紙を母が夜遅くまで訳しているのをよく見ておりました。


-----朝香宮邸は、フランスに行っているときに構想されたと考えてよろしいですか。


大給:たぶんそうだと思います。


-----工事中の白金の朝香宮邸にはよく行かれたのですか。


大給:はい。何度も高輪から白金まで両親と見に行っておりました。コンクリートを打って、内装にかかる前にも中をグルグル回ったり。


朝香宮邸のアール・デコ

1986年㈶東京都文化振興会発行)

より抜粋


 ○ ○ ○


そしてまた、この本の中で、

元宮内省内匠寮内匠生の多田正信は

興味深いことを語っています。


-----話は少し変わりますが、朝香宮邸の特色の一つに、フランスのインテリア・デザイナーであったアンリ・ラパンの内装デザインがあると思うのですが、ラパンはどういうところに関係していたのですか。


多田:私の記憶によりますと、ラパンが関係したのは、ある程度なんです。大体の基本設計ができたところで、主要な部屋のデザインをラパンに頼みたいということを朝香宮様のほうからおっしゃたんだろうと思います。初めの請負契約にはラパンについては触れられていませんでした。

-----工事を請け負ったのは・・・。


多田:入札で戸田組が請け負ったんです。戸田利兵衛・・・。ただし、請負契約の仕様書には、一階の大食堂、大客室、次の間、小客室、大広間、二階のお書斎の六室は別途発注とすると記せられていたと思います。


-----円形の書斎も別途発注ですか。


多田:そうです。塔の下のあるお書斎も含めて六室の内装デザインを宮家からラパンに依頼されたのだと思います。


-----そうしますと、ラパンはインテリア・デザイナーとして、六室の内装デザインに関係したということですね。建物の立面とかプランとかには関係しなかったのですか。


多田:プランとか立面の決定はすべて内匠寮の三人です。とくに権藤さんです。しかしだんだん思い出すと、二階の殿下のお居間、これは初めはラパンの方には入ってなかったのですが、のちに追加してラパンに依頼されたと思います。そうしますと結局、一階の五室と二階の二室、合計七室の内装デザインをラパンが手がけたということになります。それ以外のすべては内匠寮の設計になるものです。



「朝香宮邸のアール・デコ」より抜粋


 ○ ○ ○


そしてまたこの本の中で

松本哲夫氏は

このように解説しています。


縮尺20分1の躯体展開図が宮様自身によってアンリ・ラパンに送られ、フランスでラパンの作業は進行したという。ラパンからの図面は天井伏図、床面のデザイン図、展開図、彩色パース等であって、詳細図はあまりなかったという。従って、これらのデザインを中心に内匠寮の建築家は、1925年博を見るために渡仏したり、各種材料を集め、いわば日本のアール・デコを創りあげていったことになる。


「朝香宮邸のアール・デコ」より抜粋


 ○ ○ ○


朝香宮邸について語る時、

フランスのデザイナーである

アンリ・ラパンが前面にでてきますが、

この本を読み込んでいくと、

ラパンは一度も来日せず

図面もしくは模型などを送り、

詳細なデザインを考えていったのは

日本の建築家だった

ということがわかってきます。

朝香宮邸の特徴は

細部のデザインではないかと思ってきました。

ここまで洗練されたアール・デコを

創りあげたのは、

日本人建築家だったのです・・・。


・・・・・・・

次回

朝香宮邸の建築・その4

に続く・・・。

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by y-hikage | 2018-10-31 14:35 | 建築巡礼 | Comments(0)