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日日日影新聞 (nichi nichi hikage shinbun)

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大船田園都市計画資料展

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27日まで大船ルミネウィング6階で


開催されていた


『かまくらのすてきなたてものえほん展』の


会場の外の通路で


「大船田園都市計画資料展」が


パネル展示にて開催されていました。


「大船田園都市計画」・・・


聴いたことがあるようでないような・・・


興味深くパネルの資料を読みました。



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「大船田園都市計画」は、


大正末期から昭和初期にかけて、


大船駅東口付近の


10万坪(東京ドームのグラウンド約25個分)を


舞台に構想された大規模な住宅地開発計画で、


時代の波に翻弄されながらも、


その痕跡を現代に残した幻の計画です。



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『明日の田園都市』


(『明日(TO-MORROW)』)の


第三版1902年)の表紙。


ウィリアム・モリスの友人であり社会芸術家の


ウォルター・クレーンが描いた表紙絵



「田園都市」とは、


19世紀末のイギリスで


エベネザー・ハワード氏によって提唱された


社会改革をめざす理想的都市計画(論)思想です。


共有された土地に、


健康的な住宅地と産業立地のために


新しい町が設計され、


自立した地域共同体の形成をめざしました。


ロンドン郊外レッチワースに建設された町は、


100年経った現在も、


変化しながら初期の理念をつらぬき、


「レッチワース田園都市ヘリテッジ財団」によって


経営されています。


樹木に囲まれた美しい町並みと


文化施設、最先端の工場街、


農業地帯が広がっています。


日本では、明治期以降に紹介され、


過密化した都市の問題解決策として


内務省地方局や民間企業に


よって注目されました。


原点であるイギリスと日本での受け入れ方には、


差がありますが、


意欲的に海外の動きから学んだことは明らかです。



★海外の田園都市を見学した人たち


・大沢三之助(建築家)


(イギリス:ハムステッド、明治40年前後)


・生江孝之(社会実業家)


(明治41年にレッチワース訪問、


ハワードに会いその人柄にふれる


『わが90年の生涯』)


・渡辺六郎(東京渡辺銀行取締役)


(明治45年~46年、イギリスほか欧米外遊、


建設中のレッチワース?)


・渋沢秀雄(実業家)


(大正8年~9年、


レッチワースは建設途上で寂しい風景・・・


サンフランシスコで


エトワール式道路に感銘を受ける。



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「大船田園都市計画」では、


理想の町(「文化村」)を作るため、


レッチワースの例に倣い


先進的な「建築物規定」を設け、


オープンでゆったりとした街路をつくり、


碁盤の目と放射状の道路を組み合わせた


理想的な街づくりをめざしました。


広場、クラブハウス、


美術館、野外劇場といった


公共施設が含まれていました。


駅近くにはわずかですが、


商業施設や工場が計画され、


職住接近の考えが見えます。



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◆建築物規定


☆田園都市は目先の事ばかりでなく


永遠の事も考えていろいろと施設を加えて


置かねばなりません。


☆田園都市というものは、


閑静ということと同時に愉快なる住宅地、


すがすがしい心持にする町に。


☆せめて前庭だけは塀を低くして、


中を見られて困るという小さな感を、


お互いに明るい快い町に住むという


大きい長所のためにすてていかねばならない。


1、建物の外観は全て洋館にする。


2,建物の建築面積は宅地面積の


三分の一を超えてはならない。


(後略)


『田園住宅図集』より



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『大正モダンの理想を掲げた壮大計画』


「大船田園都市計画」は、


大正末期から昭和初期にかけて、


大船駅東口付近の約十万坪を


舞台に構想された


大規模な住宅地開発計画で、


時代の波に翻弄されながらも、


その痕跡を現代に残した幻の計画です。


【計画の背景】


日露戦争・第一次世界大戦後の好景気


「大戦景気(大正バブル)」に乗じ、


イギリスの田園都市計画論を模範とした


理想的な住宅開発が


全国で活発化しました。


・東京近辺の計画地


(大和郷:現文京区/桜新町/


田園調布/国立大学町ほか)


【計画の内容】


銀行家の「渡辺六郎氏」を中心に計画され、


大正11年(1922年)に設立された


「大船田園都市株式会社」が、


大船駅東口を中心とする


10万坪(約33ヘクタール)の土地で


事業を開始。


これは、渋沢栄一氏が手掛けた


田園調布を凌ぐ規模でした。


株主には、大船・岩瀬在住の地主、


資生堂や富岡合名会社などの企業が


参画していました。


【理想の街並み】


計画地の中止に広場を置き、


そこから道路が放射状に伸びるゾーニング。


近代的な碁盤の目状の街区と組み合わせる。


広々とした区画に公園や緑地を配置し、


豊かな自然と調和した


住環境を創出する構想でした。



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造成地を見分する


「大船田園都市株式会社」


(大正1012月設立)の役員達



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「新鎌倉さつき本道ノ歩道舗装状況」


建設中の渡辺六郎邸


銀杏とさつきの樹木が新しい


(大正12年春)



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「新鎌倉さつき本道夕陽ヶ丘ヨリ停車場方面を望ム」


車道は砂利道、歩道はレンガ敷き




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大船田園都市模型



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改善住宅設計コンペ作品一部


応募案:220


優秀案150点を大正119月に


資生堂ギャラリーにて展示



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建設中の渡辺六郎邸(夕陽ヶ丘)


【渡辺家のその理想】


渡辺家のルーツは、江戸日本橋で


海産物を商う「あかち屋」商店。


明治期に土地金融中心の会社に。


田園都市へ。



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日暮里道潅坂から大船へ移転の日


大正13年(1924年)9


渡辺六郎氏37


(渡辺秀著「渡辺六郎家百年史」より)



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自家用社車シトロエンの前で


後方に渡辺家の建物



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■関東大震災と経済変動による不測の事態


【想定外の危機】


大正12年(1923年)に関東大震災が発生し、


震源地に近い大船も大きく影響を受けました。


震災からの復興需要で


一時的に建築熱が高まったものの、


計画当初の優雅な生活空間という計画は


大きく揺らぎ始めました。



上の写真は、関東大震災の被害状況


建長寺山門


建長寺方丈


円覚寺舎利殿



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【分譲の難航】


震災後の経済状況や、


高価な土地設定などが影響し、


分譲された土地が計画通りに


売れて行かなくなりました。


事業の停滞


当初の計画に遅れが生じ、事業は停滞。


資金繰りが悪化していきます。


金融不安そして会社の倒産と


昭和恐慌により計画が頓挫していきます。


【会社の倒産】


昭和金融恐慌の引き金となった、


「大船田園都市株式会社」の


親会社である「東京渡辺銀行」が


昭和2年(1927年)に破綻し、


援助が絶たれ、


景気の悪化や震災の


補修費用の増大などにより、


資金難に陥り「大船田園都市株式会社」も、


昭和3年(1928年)に倒産。


【決定的な打撃】


昭和4年(1929年)に昭和金融恐慌が発生、


経済情勢が急激に悪化し、


金融不安が広がり、


高価な住宅地の購入どころではなくなり、


壮大な田園都市計画は、


志半ばで幻となり実現しませんでした。


昭和2年(1927年)3月、


東京渡辺銀行が営業停止/


昭和15年(1940年)6月、


株主総会にて解散決議精算事務を行います。



大正10年・


田園都市開発直前の測量図(上図)と


昭和8年・


田園都市の区画が出来つつある測量図(下図)。



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土木工事・第一期・二期・三期図(右図)と


現在の地図(左図)



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大船田園都市遠望(昭和4年頃)



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■残された痕跡と現代への影響


上の写真:


大船駅東方の木々に囲まれた


田園都市を望む(昭和10年)。


山裾に建設中の松竹大船撮影所が見えます。



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【残された街並み】


計画の一部は実行され、


現在の街並みの基礎を形成しました。


碁盤の目のような整然とした区画や、


広幅の道路、イチョウとサツキの並木


(さつき通り=松竹通り)などは、


当時の計画の名残とされています。


創立当時の洋風の家が12軒、


最近まで残っていました。


当時の土木遺構の一つ、


マンホールの蓋も残っていました。


【近代大船の礎】


計画の中心人物である「渡辺六郎氏」は、


頓挫した計画の責任を負いながらも、


その後の大船の街づくりに


大きな影響を与えたと評価されています。


渡辺家が上野公園花園稲荷神社から


分祀した「山蒼稲荷社」は、


今でも町で守られ、


最近その側に「商住一体型複合施設


『くぐるkuguru』」が竣工しました。


町の歴史を感じさせてくれる一隅です。




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上の写真


Ogc(大船ガーデンシティー)のマンホールの蓋


マンホールの蓋に書かれた


ogc」は、「ofuna-gardenn-city」の略です。


3か所で確認できましたが、


現在は掘り起こされて保存されています。


【歴史の記憶】


計画は頓挫しましたが、


その壮大な構想は、


歴史の1ページとして記憶され、


現在の都市計画の街並みを


考察する上で重要な事例となっています。



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渡辺家邸宅が松竹撮影所に移動し


活用されました。


その曳家の様子。



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最近まで町に残っていた


田園都市初期の建物



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昭和10年代、はるか後方に


松竹大船撮影所の正門が見えます。



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【まちの記憶「資生堂鎌倉工場跡地」】

この辺りから大船駅方面にかけては、

大正時代末期まで、

離れ山の山並みに沿った一面の水田地帯でした。

明るく清浄な空気に包まれた

10万坪の広い土地と

東京との鉄道交通の利便から、

「大船田園都市株式会社」が、

この地に理想的なまちづくりを計画しました。

当時、英国から世界に広まった

「田園都市構想」の舞台として、

大正111922)年以降、田んぼを埋立て、

「新鎌倉住宅地」建設が始まりました。

それには地主たちも協力し、

順調な滑り出しでしたが、

関東大震災や昭和金融恐慌の影響を受け、

完成を見ることなく昭和31928)年に

終焉を迎えました。

現在の大船の街区などに

その名残が見られます。

昭和91934)年になると、

未着手の土地七万坪を

「松竹映画都市株式会社」が購入し、

大船撮影所を中核とする

宅地分譲を手がけました。

なかには有名な俳優の家や

なじみの飲食店も建ちました。

当時の大船町も町有地2万坪を寄付、

9万坪の大規模開発でしたが、

途中で一部は工場用地に転換され、

昭和34(1954)年創設の

資生堂鎌倉工場など、

数社が撮影所周辺に立地しました。

資生堂は、日本初の民間調剤薬局として

明治5(1872)年に銀座で創業、

明治30年以降は

世界的な化粧メーカーとして、

海外にも工場を拡大しました。

そして資生堂鎌倉工場は、

平成272015)年まで、

工場見学や施設開放など地域貢献をおこない、

ここ大船一帯のまちづくりにも

深くかかわってきました。

この場所は、その跡地であり、

この地でこのたび行われた

開発行為にともない

鎌倉市が提供を受けた公園です。

上の写真は、資生堂鎌倉工場跡地の公園



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公演の届出地名地番は、

「鎌倉市岩瀬1丁目112筆」



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田園都市住宅模型



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【旧大船町役場】

この建物は大正15年(1926)、

「小坂村玉縄村組合村役場」として、

大船田園都市株式会社設計監督のもと

新築されました。

その後、

大船町役場(昭和8年~昭和23年)、

大船支所(昭和23年~昭和49年)

として使用され、

最後に「鎌倉市文化財課分室」となりましたが、

建物は現存しません。

戦前戦後にわたり、

山ノ内・台・小袋谷・大船・岩瀬・今泉・

岡本・植木・城廻・関谷と

広範囲のコミュニティーの中心として

活躍した建物でした。

1階は、

事務受付カウンター、町長室、宿直室など、

二階は、議会会場でした。

この模型は平成18年作成建築実測図

(神奈川建築士会スクランブル調査隊、

鎌倉歴史的資産調査会、

大沢匠、鎌倉市中央図書館近代資料室ほか

ボランティア調査団作成)

にもとづいて作製されました。



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取り壊し前の旧大船町役場



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旧大船町役場階段親柱

デザインに、大正時代に流行した

新しい建築様式ゼセション(分離派)の

影響が見られます。



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旧大船町役場・実測調査図面



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by y-hikage | 2026-03-05 16:19 | 鎌倉の建築 | Comments(0)
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