ブログトップ | ログイン

日日日影新聞 (nichi nichi hikage shinbun)

hikagesun.exblog.jp

鎌倉の建築のふたつの顔

鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11275613.jpg



鎌倉の建築には「ふたつの顔」があります。


ひとつは、


建長寺を代表とする「禅宗様建築」


もうひとつは「洋風建築」です。


中世の主都であった鎌倉は、


近世以降も風光明媚な史跡都市として有名でした。


近代(明治以降)には、


この史跡・名勝としての鎌倉に、


海水浴場と避暑避寒の別荘地としての


鎌倉という特徴が加わります。


この海水浴場や保養地としての


鎌倉の登場の契機となったのは、


鎌倉が保養地として最適だとする、


お雇い外国人ベルツによる


推奨(1880年・明治13)と、


長与専斎による海水場適地としての


鎌倉の紹介(1884年・明治17)だとされています。


その長与専斎が、1887年(明治20)に


サナトリウムとして開いたのが「海浜院」です。


海浜院は、1916年(大正5年)に


「鎌倉海浜ホテル」となり、


1945年(昭和20)に焼失するまで、


鎌倉の大規模洋風建築の代表としてあり続けました。


鎌倉の近代史上、


海浜院の開設以上重要なのは、


1889年(明治22年)の横須賀線の開通です。


横須賀線の開通とともに


鎌倉の近代化に大きく影響したのが、


1910年(明治43)の江ノ電の鎌倉までの開通です。


もうひとつ、鎌倉の近代に大きな影響を与えたのが、


1899年(明治32)の鎌倉御用邸の造営があります。


関東大震災で御用邸は倒壊してしまいますが、


御用邸の存在によって避暑避寒の別荘地としての


「鎌倉ブランド」が高まりました。


このような近代化の要素と鎌倉の史跡名勝が重なり、


鎌倉が別荘地として発展していきます。


この別荘建築の多くが


「洋風建築」としてデザインされました。


しかし残念ながら関東大震災(1923年・大正12)で


ほとんどの洋風建築が失われました。


現在残る「洋風建築」は、


震災後の大正末期から昭和初期にかけて建てられた


「復興洋風建築」として


鎌倉の歴史的景観を形づくっています。



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11275275.jpg



旧華頂宮邸


1929年(昭和4年)


厳格な垂直と水平の線の構成


控えめで端正なデザイン



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11274682.jpg



華頂宮邸は、1929年(昭和4年)に


華頂博信侯爵が


新たな生活の門出のために建てた邸宅です。


構造は木造で、屋根裏付きの2階建てで、


地下にはボイラ室が設けられています。


延べ床面積は約580㎡(180坪)、


宮内省が建設費を負担する


宮家の邸宅と比べると小振りですが、


新婚家庭には申し分のない規模です。


外観は「ハーフティンバー」と呼ばれる、


木の構造体を外部に露出させるデザインの要素にした、


西洋の伝統的な民家によく見られる手法が


用いられています。


北側ファサードでは、


窓上下の正方形小壁に三角形の小材を利用して


X字型の地紋をつくり出すなど


装飾的な雰囲気を出しています。


南側ファサードでは、


厳格に垂直と水平の材で統一されており、


持ち送り端部の刳型(くりがた)が


わずかに華やかさを醸し出しています。



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11274140.jpg



左右対称の幾何学式庭園から見た南側外観


厳格な垂直と水平の線の構成


屋根勾配も矩勾配(45度勾配)



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11273549.jpg



2階を受ける片持梁(持ち送り)端部の



刳型のデザインが控えめで端正です。



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11272900.jpg



玄関側から見た北側外観。


2階部分がハーフティンバースタイル。



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11272464.jpg



破風に施された装飾



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11271674.jpg



窓の格子



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11271130.jpg



鎌倉文学館(旧前田家別邸)


1936年(昭和11年)


和洋折衷建築


さまざまなデザイン要素の組合せ



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11270656.jpg



前田家第16代当主前田利為が


1936年(昭和11年)に建てた邸宅です。


設計は前田家お抱えの渡辺栄治、


施工は竹中工務店です。


戦後は、GHQの接収を受けています。


佐藤栄作が1964年から1975年に


亡くなるまでの間、


建物のほぼ半分を別荘として借りていました。


1983年に鎌倉市に寄贈され、


1985年に鎌倉文学館として開館しました。



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11270139.jpg



この建物は、1階は鉄筋コンクリート造で、


2階・3階は木造です。


1階が南側の庭に埋もれるように設計されているため、


一見すると2階建てに見えます。


1階の外壁は当時鎌倉の別荘建築に多く用いられた


二丁掛のタイルが張られています。


また2階・3階は、


半六角形の張り出し窓・


半円形欄間の飾り窓・


パラペットの装飾・


ヴェランダの手摺等


洋風デザインを導入しています。


一方、瓦葺きの切妻屋根と深い軒の出等


和風デザインも見られ、


全体的に和洋折衷の外観を呈しています。


庭に広く面した横長の外観は、

鮮やかな青色のスパニッシュ瓦と


明るいクリーム色の外壁で統一感を出す一方、


切妻屋根や八角形の塔屋風の


ベイウインドウで分割されて、


小さな建物が肩を寄せ合って並ぶようにも見え、


規模のわりに大きさを感じさせません。



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11265479.jpg



庭を高くしているので


3階建てなのに2階建てに見えます。


バリエーションに富む窓のデザイン。



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11254462.jpg



東側面から玄関へと向かう車寄せ。


門のような玄関ポーチの柱部分には


透かし装飾が施されています。



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11253905.jpg



八角形の塔屋風のベイウインドウ。


2階と3階で窓の形が異なり、


2階のアーチ部分には、


ステンドグラスがはめ込まれています。



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11244797.jpg



2階ヴェランダ



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11243288.jpg




鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11242734.jpg



玄関車寄せ



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11242108.jpg



長谷子ども会館


1908年(明治4年)


ギリシャ建築の様式


鎌倉の貴重な明治建築



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11241623.jpg



長谷子ども会館の外観



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11241093.jpg



寸松堂(すんしょうどう)


1936年(昭和11年)


鎌倉の奇抜な建築


寺院建築と城郭建築の合体



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11240432.jpg



寸松堂は、鎌倉彫の商店兼住宅として


1936年(昭和11年)に建築されました。


設計・施工は、戦前の鎌倉の異能大工・西井喜一。


寸松堂の建築の特徴は、


特異な外観にあります。


すなわち3階建ての塔。


この塔は頂部に相輪を載せ、


二重・三重の二軒の繁垂木を用い、


三斗の出組、花肘木、蟇股といった


細部意匠が見られるなど、


まるで寺院建築の塔婆を思わせます。


しかし窓は城郭建築に見られる武者窓であり、


寺院建築と城郭建築が


町家と合体したような建築です。



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11235865.jpg




鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11235346.jpg




鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11234639.jpg



寸松堂の全景


屋根のかたちが複雑です。



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11234057.jpg



寺院建築と城郭建築が


町家と合体したような建築。



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11233011.jpg



寸松堂の配置図・屋根伏図



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11232446.jpg



寸松堂の立面図・断面図



鎌倉の建築のふたつの顔_c0195909_11502947.jpg


by y-hikage | 2025-08-12 11:50 | 鎌倉の建築 | Comments(0)
<< 鎌倉の和様 長谷子ども会館(旧諸戸邸)の意匠 >>