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WHAT MUSEUMで
8月25日まで開催されていた
「感覚する構造 法隆寺から宇宙まで」
という展覧会に会期終了間際に行きました。
展覧会のチラシには、こう書かれています・・・。
◇◇◇
我々人類は、地震力や風力はじめ
自然の力が及ぶ世界に生き、
地球という重力空間において、
建築における力の流れを
どうデザインしてきたのでしょうか。
そうした力の流れや素材と
真摯に向き合い、
各時代における技術を駆使し、
建築の骨格となる「構造」を
創造してきたのが、
構造デザインの世界です。
◇◇◇
建築を設計するうえで、
昔から個人的に思ってきたことは、
「美しい構造であることが、美しい建築を
つくる前提にあるのではないか」
ということであるので、
構造模型の展覧会は
興味がつきないものであります。
「感覚する構造」展で
展示されていた構造模型は、
どれもがすばらしく圧倒されました。
特に法隆寺五重塔などの
「古典建築」の構造模型の
迫力には驚かされました。
しかも模型製作技術の美しさ・・・。
今回、日日日影新聞で記事にした
構造模型を
解説パネルに書かれていた
文章を読みながら紹介したいと思います。
◇◇◇
法隆寺五重塔(700年頃再建)
国宝建造物
「五重塔はこれまで地震で
倒壊した記録がない」と言われており、
その耐震性については
現代でも様々な説がある。
これらはいずれも独立したものではなく、
その組み合わせによって
千余年も存在し続けてきたであろう。
法隆寺五重塔では
各階ごとに軸部・組物・軒の組み上げを
繰り返して作られる
積み上げ方式となっており、
単純に積み上げられた部材は
地震時にばらばらに動き、
これら各部位が地震時にエネルギーを
吸収すると考えられている。
また法隆寺五重塔では
各層の中心を貫く心柱が
他の部材から独立した
掘立柱形式となっており、
門の扉が開かないようにする
閂(かんぬき)と呼ばれる
横木のような効果を
果たすとも指摘されている。
重ねられたお椀の中心に
割り箸を通すことで
揺れても崩れないことから、
その効果が理解しやすい。
薬師寺東塔(建立730年)
国宝建造物
東大寺正倉院正倉(756年)
国宝建造物
正倉の構造では、
三角形に近い形の長材を
井桁に組み合わせて積み上げる
校倉造の壁が特徴的だが、
ここでは床下の束柱に注目したい。
束柱は長さ2.3m、直径60㎝で、
床の位置で切断されている。
脚部も基礎となる礎石に載るだけの
石場建て方式であり、
床下にはこの束柱40本あるだけで、
耐震のための壁などはない。
これらの柱が転倒しないのは
傾斜復元力と呼ばれる
効果のおかげであり、
これは起き上がりこぼしの原理と
同じと考えると理解がしやすい、
傾斜復元力は
① 柱の断面が大きいほど、
② 上からの荷重が大きいほど、
③ 柱の長さが短いほど、
効果が大きくなり、
この建物の束柱は
これらの条件をよく満たしている。
東大寺大仏殿
(758年・1203年再建・1709年再建)
国宝建造物
天平宝字2年(758)に
創建された木造建築であるが、
源平の争乱によって1180年に
灰儘(はいじん)に帰した。
その後、
俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)は
61歳の時に東大寺勧進職に就き、
この東大寺大仏殿再建の責任者となった。
しかし東大寺再建は、
資金、技術、材料の面で多大な困難があった。
技術面では、奈良時代の大仏殿は
無理のある構造であったために、
再建に際して宋の技術を取り入れた
大仏様が採用されている。
深い軒を支えるための
多段の挿肘木(さしひしき)は、
柱を貫通して留め付けられている。
この柱を貫通する部材は貫として、
以降の日本建築に多大な影響を与えている。
部材としては、
身舎の柱で長さ約19.5m、
太さ約1560㎜、
廂柱(そうはしら)で長さ約22.5m、
太さ約1440㎜など、
巨大な材が必要とされた。
これらの部材の調達に関しては、
鎌倉時代には都のあった
畿内周辺の森はかなり荒廃しており、
周防の国(現在の山口県)から
瀬戸内海を経て部材を
調達する必要があった。
多くの困難を克服して
巨大な建築を実現させた重源は、
希代の建築プロデューサーであった。
東大寺南大門(1203年)
国宝建造物
投入堂(平安時代後期)
国宝建造物
懸造りとは、
傾斜が急な崖や渓谷の上などに
建築する伝統技法である。
その究極の形がこの投入堂であろう。
標高900mの三徳山(鳥取県)の
切り立った絶壁の窪みに
どのようにつくられたのかは、
今だ多くの謎に包まれているが、
運搬のためには
部材の軽量化が必須であった。
床下には伝統構法にめずらしく
補強のための筋交いが
用いられているが、
これは柱が細すぎて
柱同士をつなぐ貫を
貫通させることできなかったためであろう。
極めて軽快な建物であるが、
地震力は建物の重量に比例するため、
この軽い建物には
大きな地震力は作用しない。
また崖の窪地という地理的要因から、
強風や豪雪からも免れている。
このような環境でしか
成立しえない建物とも言える。
写真家、土門拳をして
「日本第一の建築は?と問われたら、
三仏寺投入堂をあげるに躊躇しないであろう。」
と言わしめた建物である。
松本城天守(1594年)
国宝建造物
近世初期(16世紀中頃)の戦国時代に、
防御用の櫓と領主の居館がまとめられ、
それが織田信長によって
高層化されたものが天守閣のはじまりである。
松本城天守も戦国の建物らしく
窓がほとんどなく、
矢を射るための矢座間(やざま)が
ならべられた外観に特徴がある。
これまでの五重塔のような高層建築では
各層を積み上げる形式が
とられていたのに対し、
松本城を含む天守では
通し柱という複数階ににわたる
長い柱が用いられている。
これは高い建物をつくる手間を省くと同時に、
高い建物の姿を早く外敵に見せる上で
有効だったと推測されており、
戦国時代ならではの工夫といえる。
また外側を土壁で塗り込めてしまう
土蔵造が普及するのも
この時代からである。
厚い土壁が相手からの攻撃や
火から建物を守る役割を果たした。
構造としては、
内部の通し柱と胴差がラーメンを形成し、
外側の厚い土壁が耐震壁として
機能する外郭構造となっている。
高層化を目指す
現代の木造建築の考え方と
比較してみるのも面白い。
白川郷合掌造り民家・旧田島家(明治初期)
「割り箸を壊してください」と言われて、
押し潰したり引き千切ろうとする人は
まずいない。
ほとんどの人が曲げ折ろうとするのは、
棒状の材が曲げられる力に対して
最も弱いことを
感覚的に理解しているからである。
伝統木造の屋根を形作る「和小屋」は、
この不利な曲げに耐えるために、
大きな梁部材を必要としてきた。
一方、白川郷の合掌屋根が
形成する「トラス」は、
力を圧縮力で伝えるために、
小さな断面で力に対して抵抗ができる。
このトラス構造が体系的に
利用されるようになったのは
明治以降であるが、
白川郷の合掌造りを作った大工たちが
この原理を理解していたことは、
接合部を観察するとよくわかる。
合掌を形成するサスの脚部は、
駒尻と呼ばれる鉛筆型になっており、
水平梁に作られたくぼみに
差し込まれているだけである。
トラスの原理を理解していないと
このような接合部にはできない。
また屋根部材は
紐で接合されただけの
素朴なものとなっている。
構造の原理を知ることで、
プリミティブな素材のみでも
素晴らしい建築ができる、
世界に誇る事例である。
組物(近代中期)
さざえ堂(1796年)
さざえ堂は江戸時代、
関東から東北にかけて流行した
巡礼観音堂であるが、
螺旋構造をもつのは
会津さざえ堂のみである。
螺旋状スロープを
時計回りに上がってゆき、
頂上の太鼓橋を超えると
反時計回りのスロープになって、
上りと下りで人が出くわさない
一方通行となっている。
螺旋形状をつくるためには、
柱と梁は三次元的にぶつかることになり、
その角度、形状を
事前に把握して架構した
大工技術の高さを感じられる建物。
また一方向の螺旋スロープで
はねじれに弱いため、
後年にスロープと逆方向の斜材が
外周に追加されていることにも注目したい。
現在ではデジタルファブリケーションなど
デジタル技術の発展はめざましく、
木造建築においても
これまで不可能と思われていた
形状が次々に実現している。
しかし車に負けても
100mを速く走ることのできる人を
称賛する気持ちはなくならない。
生身の職人が
極めて複雑な形状をイメージし、
正確に加工し、
美しく組み上げることができることの
凄さは再評価される必要がある。
錦帯橋(1673年・2001年復元)
旧峰山海軍航空基地格納庫(1941年)
第二次世界大戦下の
1941年に建設された
木造の航空格納庫である。
細い木材とボルト等の金物を
組み合わせて
柱から小屋組まで一体のトラスを構成し、
それを11フレーム連ねることで、
梁間約3メートル・
桁行約31m・
高さ約13メートルという
巨大な無柱空間を実現している。
この架構は、
「新興木構造」と呼ばれる
大規模木造技術の典型である。
戦争による鉄材不足のなか、
鉄骨造や鉄筋コンクリート造の
大型の構造物を木造で代替するために
開発されたドイツ由来の構造技術だ。
大工の経験学に基づく
従来の木造とは異なり、
構造工学に基づく
精密な設計を目指したという点で
画期的な木造技術であったが、
戦後は姿を消していった。
「新興木構造」の貴重な現存例である
この建物は格納庫としての役割を終えたのち、
機織工場を経て
現在は倉庫に利用されている。
トラスの挟み梁で
屋根上部の勾配を緩くした
腰折れ屋根が独特な軽やかさを醸し、
また木製パネルを用いた接合部が
戦時ならではの工夫を今に伝える。
住宅用木材でつくられた
近年の中大規模木造建築と
比較するのも興味深い。
国立代々木競技場(1964年)
国指定重要文化財
あくまで個人的な考えですが、
いずれ国宝建造物に
指定されると思っています。
(記者(日影)談)
小国町交通センター(1986年)
小国ドーム(1988年)
大分県立武道スポーツセンター(2019年)
長野市オリンピック記念アリーナ
「エムウェーブ」(1996年)
展示されていた「現代建築」の中で
この「エムウェーブ」は
好きな「造形」のひとつです。
(記者(日影)談)
東京大学弥生講堂アネックス(2008年)
エバーフィールド木材加工場(2024年)
TheNaosihimaPlan「住」(2023年)
円相(2024年)
竹は鉄の1/3という
高い引張強度があり、
自然素材としては極めて
強度の高い材料特性を有している。
持続可能資源としての竹を
構造材料に有効活用することは
環境問題の解決につながる。
しかし、建築基準法では
竹構造は認められていないため、
工業製品として品質を安定させた
新材料の竹集成材を開発し、
新たな建築のプロトタイプとして
三方格子を用いた建築を提案した。
この竹集成材に施された継手を
1/2ずつずらして
三方向に組み合わせることで、
金物を用いず、
手作業のみで組むことが可能であり、
同じシステムで
自由に空間を展開することが可能である。
単純でいて複雑さを併せ持ち、
適度な抜け感があり、
かつ光を通すため、
光とともに移ろう空間は
様々な想像力をかき立ててくれる。
◇◇◇
以上が、この展示会で注目した
建築、撮影できた建築の一部ですが、
他にも興味深い構造模型が
たくさんありました。
目録をあらためて見直して、
見逃した貴重な建築があることも知りました・・・。
またどこかで、
構造模型展が企画されることを
楽しみにしています。
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