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日日日影新聞 (nichi nichi hikage shinbun)

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山内荘と建長寺

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中世鎌倉のまちづくりを見て、


疑問に感じていたことがありました。


鎌倉のまちは、


鶴岡八幡宮を起点とした


若宮大路の中心軸を三方山がかこみ、


まちが構成されています。


地図を見ると、


まちは海に向かって扇状にひろがり、


全体からすれば


平地が少ないことがわかります。


ところが鎌倉を代表する


建長寺や円覚寺は、


鎌倉の中心地である扇状の


平地からはずれた


北西の山の中に位置しています。


その理由がわかりませんでした・・・。



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【建長寺の大伽藍】


谷戸(やと)とよばれる


多くの谷からなる鎌倉では、


規模が大きい建築を建てることは困難でした。


そのなかにあって建長寺や円覚寺は、


谷戸の中に荘厳な姿で建っています。


建長寺は、


三門、仏堂、法堂と、


禅刹(ぜんさつ)の大きな堂宇が


一直線に並ぶ伽藍配置としています。


この伽藍配置は、


中国の五山十刹(じゅっせつ)の


1位である中国臨済宗の


本山・杭州の径山万寿禅寺


(さんざんまんじゅぜんじ)を


手本にしたものとされ、


建長寺の伽藍は、


以後、日本の禅林の規範となりました。



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【山ノ内荘】


北鎌倉から大船に及ぶ一帯は、


古来、山内荘(やまうちしょう)とよばれ、


鎌倉幕府2代執権・北条義時以来、


北条氏の嫡流(得宗・とくそう)が


代々相続した土地とされています。


建長寺の寺紋(じもん)が


三つ鱗(みつうろこ)なのも、


開基大檀那の北条氏の


家紋にちなんでいます。


建長寺をはじめ、


円覚寺、明月院、浄智寺、東慶寺と、


現在も北鎌倉界隈に禅刹が目立つのは、


北条氏の強い影響下にあった


土地柄であることによるとされています。


しかし、5代執権北条時頼が


家督を継いだときは、


山ノ内にはまだ禅刹は


ひとつも建立されておりませんでした。


のちに建長寺が創建される土地は、


地獄谷とよばれた


刑場あるいは風葬の地で、


荒涼たる風景が広がっていたそうです。


執権・時頼は北条家と


鎌倉幕府の威信をかけて、


奈良・京都にも類をみない


規模と教義をもつ大寺院を


建立するという篤い宗教心をもっていました。


時頼の理想を実現するために、


はるばる宋(中国)からやって来たのが、


僧・蘭渓道隆(らんけどうりゅう)でした。


建長寺が一応の完成を見たのは、


1253年(建長5)。


蘭渓道隆を開山として、


落慶法要が営まれたそうです。



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日影良孝建築アトリエの地元である


「山ノ内」が、


少しわかったような気がします。


山ノ内の建築や地形を


見る視点が広がったような気もします。



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by y-hikage | 2024-08-16 16:33 | 鎌倉の建築 | Comments(0)
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