建築の年表の作成をはじめました。
建築を学ぼうとするときに、歴史は
欠かすことができない要素であり、
重要な骨格のひとつだと思います。
にもかかわらず、
いままで歴史を正面から
学んできませんでした。
歴史を学ぶ方法には、
いろいろな方法があると思いますが、
まずは学ぶきっかけを作るために、
自分なりに年表を
作成してみようと考えました。
8月17日(土)、
鎌倉芸術館でのキッズプログラムの
講師をつとめることもあり、
年表が鎌倉にかたよっていますが、
まずはこの年表をタタキ台として、
これから時間をかけて年表の内容を
膨らませていきたいと考えています。
◇◇◇
年表は、
西暦と年号が表記されていますが、
時代区分で表現しているものあります。
この時代区分が難しく、
特に「近代と現代」を西暦何年から何年までと、
設定するか迷います。
今回、作成する年表には、
時代区分は書きませんが、
一応以下のように時代区分を
設定しておこうと思います。
【原始時代(~550年?)】
文献史料の存在しない時代で、
文献によって究明される
歴史時代以前の社会をさす。
考古学では、
旧石器(先土器)時代、
縄文時代、
弥生(やよい)時代に細分されています。
【古代(550年?~1190年)】
、奈良、平安時代をさす。
【中世(1190年~1603年)
源頼朝(よりとも)が
守護・地頭(じとう)の補任(ぶにん)を
勅許されたころから、
1600年(慶長5)の
関ヶ原の戦いごろまで、細分して
鎌倉、南北朝、室町、戦国、
安土(あづち)桃山(織豊(しょくほう))時代をさす。
【近世(1603年~1868年)】
江戸幕府の創立(1603)から
明治維新による東京遷都(1869)まで、
あるいは関ヶ原の戦い(1600)以降
大政奉還(1867)に至る間をさす。
江戸時代と重なる。
【近代(1868年~1945年?)】
明治維新の始期については、
1840年代の天保(てんぽう)期、
1853年(嘉永6)の
ペリー来航を契機とする説がある。
近代の終期、現代の始期については、
世界史的な帝国主義段階に入る
1900年(明治33)説、
1917年(大正6)の
社会主義国ソ連の出現に置く説、
1945年(昭和20)の
第二次世界大戦終了に置く説がある。
【現代(1945年?~)】
前項のとおり3説が考えられるが、
1955年(昭和30)の
保守合同以降とする説もある。
かつては明治維新(1868)以後の
時代を現代と称する向きもあった。
◇◇◇
建築年表
【平安時代(801~1191)】
〇1063年・康平6年・鶴岡八幡宮
源頼義(よりよし)が守り神として
京都の石清水八幡宮を
由比郷(ゆいごう)鶴岡(現在の元八幡)に
勧請したのが、鶴岡八幡宮のはじまりである。
〇1081年・永保1年・鶴岡八幡宮
源義家が由比郷鶴岡を修復
〇1104年・長治1年・荏柄天神社
荏柄天神社創建。
本殿は鶴岡八幡宮の若宮から
移された鎌倉時代?
(室町前期)の建築とされています。
◆1124年・天治1年
中尊寺金色堂
◇1156年・保元1年
保元の乱
◇1159年・平治1年
平治の乱
◆1165年・長寛2年
三十三間堂
◇1167年・仁安2年
平清盛、太政大臣となる。平氏全盛。
◆1168年・仁安3年
厳島神社
(現在の社殿・1240年~1243年再建)
◇1179年・治承3年
平清盛、後白河法皇を幽閉
◆1180年・治承4年
興福寺三重塔
〇1183年・寿永2年
平氏、西国に逃れ、源義仲入京。
源頼朝の東国支配権確立。
〇1184年・元暦1年
源頼朝、鎌倉に公文所・間注所を設置。
〇1185年・文治1年
平氏、壇ノ浦に滅亡。
源頼朝、守護・地頭任命の権を獲得。
〇1189年・文治5年
奥州藤原氏の滅亡
◆1180年・治承4年
興福寺三重塔
〇1180年・治承4年・鶴岡八幡宮
鎌倉入りした源頼朝が、
現在の地に遷座(せんざ)して
鶴岡若宮と称する。
〇1182年・寿永1年・鶴岡八幡宮
源頼朝の御台所政子の安産を祈願して、
参道「段葛(だんかずら)」を造らせる。
社前から南に延びる
若宮大路(わかみやおおじ)と称される。
〇1188年・文治4年・浄明寺
浄明寺創建(鎌倉五山第5位)
〇1191年・建久2年
源頼朝、公文所を政所と改める。
〇1191年・建久2年・鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮寺が焼失したが、
すぐに若宮(下宮)を再建。
このとき本宮(上宮)が創建され、
現在のような上下両宮の姿となる。
【鎌倉時代(1192~1334)】
〇1192年・建久2年
源頼朝、征夷大将軍となる。
〇1199年・正治1年
源頼朝死す。源頼家が家督を相続。
〇1200年・正治2年・寿福寺
寿福寺創建
□1285年・弘安8年・東慶寺
東慶寺創建
〇1253年・建長5年・建長寺
鎌倉幕府5代執権・北条時頼(ときより)が、
中国宋(そう)の
僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を招き、
日本最初の禅宗専門道場として
建長寺を創建する。
鎌倉五山第1位。
〇1255年・建長7年・建長寺
北条時頼(ときより)、
梵鐘(ぼんしょう・国宝)の鋳造を
発願(はつがん)する。
〇1262年・弘長2年・建長寺
蘭渓道隆が京都・建仁寺移る。
〇1264年・文永1年・建長寺
蘭渓道隆が
建長寺往持(じゅうじ・寺の主僧)に復帰する。
〇1276年・建治2年・建長寺
建長寺法堂(はっとう)が建立される。
このころ建長寺の主要な堂宇の建設が
ほぼ終了し、寺観が整う。
〇1278年・弘安1年・建長寺
蘭渓道隆が建長寺往持として再住するが、
ほどなく示寂(じじゃく・死する)、
大覚禅師(だいかくぜんじ)として
諡 される(おくりなされる・称号)。
□1281年・弘安4年・浄智寺
浄智寺創建、鎌倉五山第4位。
□1282年・弘安5年・円覚寺
鎌倉幕府8代執権の北条時宗、
文永・弘安の2度にわたる
元寇(げんこう)による両国の戦没者を
弔うため、
宋僧(そうそう)の無学祖元(むがくそげん)を
開山に迎えて創建する。
鎌倉五山第2位。
□1284年・弘安7年・円覚寺
北条時宗死去。
北条氏の廟所(びょうしょ)として
佛日庵(ぶつにちあん)を創建する。
□1285年・弘安8年・円覚寺
鎌倉大慈寺(だいじじ)に祀られていた
仏舎利(ぶっしゃり)を移し、
舎利殿を建立する。
□1286年・弘安9年・円覚寺
無学祖元、示寂(じしゃく・死する)。
〇1293年・永仁1年・建長寺
建長寺、大地震に見舞われ、
伽藍が倒壊、炎上する。
□1301年・生安3年・円覚寺
円覚寺、洪鐘(おおがね)が鋳造される。
〇1306年・徳治1年・建長寺
建長寺、このころ講堂が復興される。
□1308年・延慶1年・円覚寺
円覚寺、定額寺(じょうがくじ)となる。
〇1308年・延慶1年・建長寺
建長寺が
定額寺(じょうがくじ・寺院制度)となり
勅額(ちょくがく・天皇の命により賜る)を受ける。
〇1193年・建久4年・鶴岡八幡宮
下拝殿(舞殿)が新造される。
〇1315年・正和4年・建長寺
建長寺、火災により伽藍が焼失。
□1323年・元享3年・円覚寺
法堂の落慶法要。のちに焼失し、
現在にいたる。
〇1325年・正中2年・建長寺
建長寺、造営費を得るため、
貿易船「建長寺造営料唐船」を
中国に派遣する。
□1327年・嘉暦2年・瑞泉寺
瑞泉寺創建
□1329年・玄徳1年・円覚寺
無窓疎石(むそうそせき)、
円覚寺15世に迎えられる。
□1333年・正慶2年・円覚寺
鎌倉幕府滅亡。
大檀那(おおだんな)の北条氏が滅びる。
【南北朝時代(1335~1392)】
□1335年・建武2年・円覚寺
無窓疎石、後醍醐天皇の命により、
建長寺正続庵を円覚寺に遷す。
□1336年・建武3年・円覚寺
足利尊氏、没収されていた寺領を
安堵(あんど・
以前の知行地をそのまま賜る)する。
□1354年・文和3年・円覚寺
無窓疎石の塔所(たっしょ)として、
黄梅院が建立される。
〇1368年・応永1年・建長寺
応永年間(1368~1375)、
建長寺を主とする大覚派と
円覚寺を主とする仏光派(ぶっこうは)
の紛争がはじまる。
□1374年・応安7年・円覚寺
円覚寺、大火により、
全山が灰燼(かいじん)に帰す。
〇□1386年・至徳3年・建長寺・円覚寺
足利義満の五山制で、
京都・鎌倉の五山制がほぼ確立し、
建長寺が鎌倉五山の第1位となる。
円覚寺が鎌倉五山の第2位となる。
〇鎌倉五山(かまくらござん)・
京都五山(きょうとござん)について・・・。
鎌倉時代末期に北条氏は鎌倉に
禅宗(臨済宗)の寺格制度(官寺)を設けた。
当時の五山は、ほとんどが鎌倉にあったが、
室町時代に京都五山と鎌倉五山の
寺格が確立し、
後醍醐天皇の建武の新政により
五山を南禅寺と大徳寺とする
京都の寺院で構成するようになった。
その後、3代将軍の足利義満が
五山を京都五山と
鎌倉五山に分けることによって、
現在のように形成されてきた。
鎌倉五山⇒
1.建長寺・2.円覚寺・3.寿福寺・
4.浄智寺・5.浄明寺
京都五山⇒
1.南禅寺・2.天龍寺・3.相国寺・
4.建仁寺・5.東福寺・6.萬寿寺
【室町時代(1393~1575)】
〇室町時代前期・鶴岡八幡宮
丸山稲荷社(まるやまいなりしゃ)
〇1414年・応永21年・建長寺
建長寺、火災により
全山のほとんどを消失し、
大打撃を受ける。
〇1461年・寛政2年・建長寺
建長寺法堂が再建される。
□1563年・永禄6年・円覚寺
円覚寺の仏殿、山門、昭堂(しょうどう)が焼失。
のちに、太平寺(たいへいじ)の仏殿を移築し、
昭堂を舎利殿とする。
【安土・桃山時代(1576~1600)】
〇1591年・天正19年・建長寺
徳川家康が、95貫文あまりの寺領を寄進する。
□1600年・慶長5年・円覚寺
仏舎利を拝した徳川家康が、100両を寄進する。
【江戸時代(1603~1867)】
〇1624年・寛永1年・鶴岡八幡宮
徳川幕府2代将軍徳川秀忠によって
再建造営される。
〇1636年・寛永13年・英勝寺
英勝寺仏殿建立
〇1656年・寛永20年・英勝寺
英勝寺山門建立
〇1647年・正保4年・建長寺
芝・増上寺より
徳川秀忠夫人・崇源院(すうげんいん)の
霊屋(みたまや)を移築し、
仏殿(本堂)とする。
□1685年・貞享2年・円覚寺
無学祖元400年遠忌
(おんき・遠く歳月を経過した法要)。
開山堂を再建。
開山堂は、舎利殿の背後に建つ。
□1699年・元禄12年・円覚寺
円覚寺の僧堂と経堂を兼ねて、
選佛場(せんぶつじょう)を建立する。
〇1775年・安永4年・建長寺
三門が再建される。
□1785年・天明5年・円覚寺
円覚寺山門が再建される。
〇1825年・文政8年・建長寺
法堂が再建される。
〇1828年・文政12年・鶴岡八幡宮
11代将軍の徳川家斉によって
上宮(本宮)が再建造営される。
【明治時代(1868~1911)】
□1871年・明治4年・円覚寺
境内を除く寺領のすべてが、
国に没収される。
□1875年・明治8年・円覚寺
今北洪川(いまきたこうせん)が初代管長となり、
のちに、居士(こじ・在家)寮を創設。
□1884年・明治17年・円覚寺
円覚寺派として独立。
〇1886年・明治19年・建長寺
修行僧学校・宗学林
(しゅうがくりん・鎌倉学園中、高等学校の前身)を設立。
□1888年・明治21年・円覚寺
円覚寺境内の白鷺池(びゃくろち)が
横須賀線の敷地となる。
〇1890年・明治23年・建長寺
静岡・方広寺(ほうこうじ)より、
半僧坊大権現(はんそうぼうだいごんげん)を
勧請(かんじょう・神仏の分身、
分霊を他の地に移して祭ること)。
半蔵坊を建立し、寺の守護神とする。
□1894年・明治27年・円覚寺
夏目漱石、釈宗演(しゃくそうえん)に参禅する。
【大正時代(1912~1925)】
〇□1923年・大正12年・建長寺・円覚寺
関東大震災により、
伽藍が被害を受け、諸堂が倒壊する。
□1928年・昭和3年・円覚寺
居士の座禅道場、居士林が復興する。
□1929年・昭和4年・円覚寺
円覚寺の方丈、庫裏、書院が新築される。
□1930年・昭和5年・円覚寺
円覚寺、禅堂が再建される。
〇1943年・昭和18年・建長寺
皇室ゆかりの京都・般舟三昧院
(はんじゅさんまいいん)より、総門と方丈を移築する。
□1964年・昭和39年・円覚寺
円覚寺仏殿
(大光明宝殿・だいこうみょうほうでん)が再建される。
□1968年・昭和43年・円覚寺
舎利殿の茅葺き屋根を杮葺き(こけらぶき)に改める。
□1985年・昭和60年・円覚寺
円覚寺開山・開基700年大遠諱だいおんき)を営む。
〇2003年・平成15年・建長寺
建長寺創建750年慶讃大法要を営む。
□2004年・平成16年・円覚寺
開山箪笥(かいざんだんす)に収納された
染織品をはじめとする寺宝の調査が行なわれる。
〇2005年・平成17年・建長寺
建長寺法堂と三門が
重要文化財に指定される。
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