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日日日影新聞 (nichi nichi hikage shinbun)

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大船の常楽寺に行きました。

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先日、となり町の大船に用事があり、


前々から見学してみたかった


「常楽寺」に行きました。


粟船山(ぞくせんざん)常楽禅寺は、


臨済宗建長寺派の寺院です。


開基は鎌倉幕府三代執権北条泰時、


開山は蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)、


本尊は阿弥陀三尊です。



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茅葺きの山門には


「粟船山(あわせんさん)」と書かれた


額が掲げられています。


この額によって、常楽寺はもと


「粟船御堂(あわふねみどう)と


呼ばれていたことがわかります。



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『吾妻鏡』によると、


泰時が妻の母の追善供養のため、


山ノ内(当時の山内荘)の墳墓のかたわらに


一つのお堂を建立し、


退耕行勇が供養の導師をつとめたとあります。


これが常楽寺の開創で、


泰時が仁治三年(西暦1242年)六月、


60歳で他界すると、


この粟船御堂に葬られ、


翌寛元元年の一周忌法会も


同じ御堂でとり行なわれました。


泰時の法名は「常楽寺殿」といわれ、


寺院の名前が常楽寺と改められたようです。



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記録上で、「常楽寺」の名が

はじめて見えるのは、

宝治二年(西暦1248年につくられた

梵鐘の銘文にからで、

その文中に「家君禅閣墳墓の道場」、

「足催座禅の空観」とあるので、

この頃には禅寺としての性格を持つ

道場となっていたようです。

建長年間、5代目執権・北条時頼は

宋から1246年に日本にやってきた

蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を、

寿福寺から常楽寺に招き、

道場を開きました。

蘭渓道隆は建長寺ができる

1253年まで常楽寺に

住んでいたといわれています。

そのため、

常楽寺を建長寺の根本の寺として、

その後も蘭渓道隆の縁によって、

建長寺から寺領を配当されていたそうです。


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仏殿には、


本尊の阿弥陀如来像と脇侍(わきじ)の


観音・勢至(せいし)菩薩像の三尊仏を中央に、


右には室町時代の作といわれる


蘭渓道隆像(大覚禅師像)が


安置されています。



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仏殿天井には、


狩野雪信が描いた竜の図があります。



清原 雪信(きよはら ゆきのぶ、


寛永20年(1643年)? -


天和2年4月29日1682年6月5日)?[1])は、


江戸時代前期に活躍した狩野派江戸狩野)の絵師


久隅守景の娘で、狩野胖幽は弟、


狩野探幽は母方の大叔父にあたる。


江戸時代には狩野派随一の閨秀画家として知られた。




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その後、いくどかの兵火や震災によって

すっかり荒れ果てて境内は狭くなり、

1923年の関東大震災では、

仏殿と文殊堂(もんじゅどう)だけを残して、

その他は大破してしまいました。


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茅葺屋根の山門は、

1661年(万治4年)の造営で、

建長寺大工の手によるものです。

一方・仏殿は、1691年(元禄4年)、

鎌倉以外の大工によって建てられ、

方三間の小規模な禅宗様仏堂ですが、

正規の禅宗様では放射状に架ける垂木を

平行にするなど、

部分的に和様を取り入れており、

大工や時代の違いを反映していて

興味深い建築です

神奈川県指定の重要文化財)


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仏殿も左側には、

正面に蘭渓道隆が書いたとされる

「秋虹殿(しゅうこうでん)の額が

掲げられている「文珠堂」があります。

文殊堂は、明治のはじめ

扇ヶ谷の英勝寺から移築した建築です。


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仏殿の裏には、

1857年に亡くなった

竜淵和尚(りゅうえんおしょう)の墓を中心にして、

右側には寄せ集めのように見られる

開基の北条泰時の墓石塔で、

左側には建長寺13世で、

南浦紹明(なんぽしょうみん)の

墓とされる五輪塔の一部があります。


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by y-hikage | 2024-05-01 14:02 | 鎌倉の建築 | Comments(0)
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