一般社団法人「木和堂」が主催する
「鎌倉みんなのけんちく学校」で
子どもたちの学習対象にさせていただいている
北鎌倉の「宝庵」にある茶室「夢窓庵」は、
京都の高台寺にある
茶室「遺芳庵(いほうあん)」を写した建築です。
正確に書くと、
逆勝手の遺芳庵を左右反転し、
本勝手の茶室にしたのが夢窓庵です。
遺芳庵は
吉野太夫(よしのだゆう・1606~1643)の
遺愛の席といわれています。
吉野太夫は江戸初期の
京都を代表する遊女でした。
1606年(慶長11)に生まれ、
7歳で遊女の世話をする
禿(かむろ・・禿名は林弥(りんや))となり、
14歳で最高位の
遊女「太夫」になったといわれています。
そのあでやかな美貌だけでなく、
歌、連歌などの才能、琴などの
楽器を演奏する音楽的才能も持ち、
茶道や華道、書道などにも秀でた
才女であったと伝えられています。
吉野太夫は26歳のときに
当時22歳の
灰屋紹益(はいやしょうへき・1610~1691)が
身請けし結婚します。
灰屋紹益は江戸時代の豪商で、
芸術家・本阿弥光悦の甥光益の子どもで、
若くして豪商灰屋紹由の養子になり
家業を継ぎました。
本阿弥光悦から茶の湯や文芸を学び、
修学院離宮を造営した後水尾天皇や
桂離宮を造営した八条宮智仁親王とも
親交があったとされています。
吉野太夫は38歳の若さで
死去してしまいます。
遺芳庵は、灰屋紹益が吉野太夫を
しのんで造ったとされ、
吉野太夫の好みを伝えると言われています。
ほかに類例のない大きな円窓があり、
これを吉野窓と呼び、
その名から吉野の席とも称されています。
この吉野窓は、正円に見えますが、
実は下側が欠けています。
これには理由があり、
禅による円(円相)は悟りや真理を
あらわす淀みのない象徴として
表現されますが、
芸事に完成形はないという意味で、
吉野太夫が好んだ図形と伝えられています。
遺芳庵は大正初期、
古美術商の土橋嘉兵衛によって、
高台寺に移築されました。
現在は、高台寺の境内に
灰屋紹益好みの「鬼瓦の席」
と向かい合うように遺芳庵は建っています。
鬼瓦の席と遺芳庵の配置図
夢窓庵の原型である遺芳庵を
鎌倉みんなのけんちく学校で
いつか見学に行けたらなと思います。
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