
山口文象の旧関口邸茶席・その2

建築家・山口文象(1902~1978)が
設計した茶室が北鎌倉のあるということは、
だいぶ以前から知っていました。
地元のせいかなかなか
興味がわかなかったのですが、
今年の3月、
友人を鎌倉建築案内をしているとき、
そういえばこのあたりに山口文象が設計した
「旧関口邸茶席(1934年竣工)」が
あったはずだと探し当て
ふらりと門をくぐり、
はじめてこの茶室の外観を
観ることができました。
茶室は2棟建っていて、
左奥に建つ
茅葺屋根の小さな茶室を観てかなり驚きました。
建築家・堀口捨巳(1895~1984)が
設計した「紫烟荘(しえんそう)1926年」と
二重写しに見えたのです。
あまり長居ができない雰囲気を察し、
早々と門を出てきたのですが、
帰路ずっと考えました。
関口邸茶席が紫烟荘に
似ていると感じる理由を・・・。
しばらく考えて
ひとつ思い出したことがありました。
山口文象は
分離派建築会(1920年~)の
一員でもあったことを・・・。
「分離派建築会」は
東京帝国大学工学部建築学科の
卒業生が始めた近代建築運動で、
堀口捨己や山田守や瀧澤眞弓らが
中心人物でした。
のちに大工棟梁の息子で
職業養成学校を16歳で卒業し
清水組に入社し
18歳で退社し建築家を目指した
山口文象が、分離派建築会の
一員になります(1923年)。
分離派建築会の中心的人物である
堀口捨己は傑作「紫烟荘」を
1926年に発表します。
紫烟荘は、
オランダ建築の様式である
「アムステルダム派」と「デ・スティル派」を
日本的に融合させたデザインとされています。

ここからは僕の推測になりますが、
おそらく堀口捨己を師と仰いでいた
山口文象は、紫烟荘を模して
「関口邸茶席・茅葺屋根一畳台目席」を
設計したのではないかと・・・・。
僕はこの推測の裏付けをとるために、
建築学会図書館の資料や
日影アトリエの蔵書を調べてみましたが、
「茅葺屋根一畳台目席」は、
京都の高台寺の一畳台目の茶室
「遺芳庵(いほうあん)」を反転して
写した設計であるという事実を知りました。
それでも懲りない僕は新たな仮説を
たてることにしました。
堀口捨己は、
山口文象を茶室「遺芳庵」に連れていき、
この茶室こそが、
「アムステルダム派」と「デ・スティル派」を
日本的に融合させた建築であると、
山口文象に語ったのではないかと
僕は推測するのでした。
そう教えられた山口文象は
遺芳庵を実測し図面に残しておいた・・・。
ところで建築雑誌・住宅建築・197708号の
誌上対談で山口文象は
驚くべきことを話されています。
「 谷口吉郎(1904~1979)や
吉田五十八(1894~1974)の茶席なんか、
わたしは茶席だと思っていませんね。
堀口先生は別ですね。
あれは学問的に、
非常に厳しい歴史的な割り出し方からきていて、
それが基礎になって
先生の茶席になっている。(後略~)」
この言葉からも
いかに堀口捨己のことを
尊敬していたかわかります。
堀口捨巳が
「アムステルダム派」と「デ・スティル派」を
日本的に融合させた建築であると認め、
紫烟荘のモデルにまでした
高台寺の遺芳庵の魅力を
山口文象は北鎌倉の建主である
関口泰氏に語ったにちがいありません・・・と、
僕はむりやり
こじつけてみるのでした。



堀口捨己が設計した「小出邸」
堀口捨己は、「紫烟荘」の前に
「小出邸(1925)」に発表しています。
小出邸は試作で
本作が紫烟荘と位置づけられています。

紫烟荘外観

それでは、
「紫烟荘」と
「関口邸茶席茅葺一畳台目席」は、
はたして図面上での
類似点はあるのかどうか、
同じ縮尺の図面で並べてみます。
上段の図面が紫烟荘。
下段が関口邸茶席。
立面図が似ているようで
似ていないようで・・・・。


以下の写真は住宅建築197708号から引用




なにはともあれ、
山口文象が32歳の若さで、
関口邸茶席を設計し完成させる技術を
もっていたことを、
あらためて知るきっかけになりました。
※※※
山口文象の旧関口邸茶席・その3
に続く・・・。
by y-hikage
| 2020-06-24 17:45
| みんなのけんちく学校
|
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