あらためて護国寺に興味をもったのは、
「Casa BRUTAUS」2017年vol・212号
「おさらい日本の名建築・杉本博司」特集を
読んだからでした。
現代美術作家・杉本博司は
最近僕の中では興味ある建築家であるので、
杉本博司の眼を通じた建築にも
同時並行に興味をもつようになりました。
杉本博司はこの特集で
建築家としての仰木魯堂を
最も敬愛していると話し、
魯堂の作品が護国寺の中にあることを
紹介しています。
護国寺は五代将軍徳川綱吉が、
生母・桂昌院の発願にしたがって
1681年の創建されたお寺です。
2万坪の境内の中に重要文化財の建築2件、
9席の茶席があり、
流派を問わず、
東部における茶道本山としての
役割を果たしています。
日本の実業家であり茶人である
高橋義雄(高橋 箒庵そうあん )が
明治維新後に零落していた護国寺を
東京における茶の湯の総本山にするべく
東京・芝にあった松平不昧公
(出雲松江藩7代藩主・江戸中期の大茶人)
の墓を護国寺境内へ移し、
それにともない、
茶室や建造物の新築や移築を計画し、
その一切を仰木魯堂にまかせました。
仰木魯堂(文久3年~昭和16年・1863~1941)は
福岡県遠賀郡に生まれ、
明治40年のときに東京・京橋に
建築設計事務所を開設したそうです。
資料には、幼少期より木や竹細工が好きで、
学歴はないそうです。
( 経歴不明の謎の建築家 )
三井財閥総師・團琢磨、
三井物産創始者・益田鈍翁、
三井銀行経営者・高橋箒庵らの
大正・昭和期の大茶人らに重用され、
多くの邸宅や茶室を請け負ったそうです。
同時代の建築家を強いてあげれば
村野藤吾(1891~1984)、
吉田五十八(1894~1974)がいますが、
仰木魯堂と交流があったかどうかわかりません。
もし僕の中に
「日本建築史という引出し」が
あったとするなら、
その浅い引き出しには
仰木魯堂という名は存在しませんでした。
Casa BRUTAUSの記事では、
杉本博司と千宗屋(せんそうおく)との対談が
掲載されていますが、
その中に書かれていた文章で
好きな部分(共感できる部分)を読んでみます。
千 : この護国寺に残る魯堂設計の茶室のいくつかは、私も何度か釜をかけた経験がありますが、非常にすっきりとして嫌みのない、静かな雰囲気の茶室です。
杉本 : 材木の使い方にもこれ見よがしな主張がなく、一見これといって特色がないようですが。
千 : 茶において主役は道具であり、「茶室は道具を引き立てるための『うつわ』である」と魯堂は言っていたそうです。これは自信も茶会の亭主を務め、茶室の使い手であった魯堂ならではの配慮でしょう。
杉本 : 数寄屋大工の中には、床柱などに高級材や珍木を使いたがる人がいますが、そういう銘木信仰みたいなものは一切ないですね。終始、目立たぬよう、騒がしくないよう控えめです。
千 : 〈圓成庵(えんじょあん)〉〈艸雷庵(そらいあん)〉は小間ですが、床の間の幅が幾分ゆったりつくられていて、掛け物がよく映えます。建築家のエゴではなく、あくまで数寄者の目線で計算されたということを感じます。
(「Casa BRUTAUS」vol・212号より)
仰木魯堂が設計した茶室2棟
〈不昧庵(ふまいあん)〉
〈圓成庵(えんじょあん)〉
がある露地の正門
正門妻面・・・。
むくりの強い屋根。
ここまでむくりの強い屋根にすると
下品になりますが
むしろ高貴で上品に仕立てています。
〈圓成庵(えんじょあん)〉
〈不昧庵(ふまいあん)〉
〈宗澄庵(そうちょあん)〉
の水屋入り口。
宗澄庵は山澄力蔵が父宗澄の菩提を弔うために
大正末期に護国寺へ寄付した茶室とののことです
(三畳台目下座床)。
仰木魯堂がどのようにかかわったか
今のところわかりません・・・。
水屋入り口まわり。
茶室全景は
生垣に隠れて残念ながら
見ることはできませんでした。
宗澄庵の門構え
宗澄庵の門構え
漆喰の鎧仕上げが印象的です。
僕の推測では仰木魯堂の好み。
重要文化財・月光殿の勝手口まわり
重要文化財・月光殿の正門
重要文化財・月光殿を囲う塀
「魯堂」と刻まれた石碑をみつけました。
石碑の背後に銘文が刻まれた
石碑をみつけました。
石碑は昭和3年に設置されたと
刻まれています。
※※※
杉本博司の眼を通じて知った仰木魯堂
仰木魯堂の研究はこれからも続きます・・・。