5月さいごの週末、
会津若松市に行きました。
市内に計画する住宅の
建主さんご家族にお会いして、
設計のイメージを
ふくらませるのが目的でした。
手料理による郷土料理と
日本酒をたくさんいただきました。
手料理も日本酒も
ほんとうに美味しくて感動しました。
市内の史跡や建物もご案内いただき、
会津若松のことを部分的ですが
知ることもできました。
その中でも
鶴ヶ城の中に建つ茶室「麟閣」を
見学できたのは貴重な経験となりました。
麟閣の正門
「麟閣」は、
千利休の子である千小庵が
建てた茶室とされています。
千小庵の母・宋恩が利休の後妻に入ったため、
千小庵は千利休の養子になり、
利休の娘であるお亀を妻とし、
二人の間に三代目である宗旦が生まれます。
それらの経緯をしめす説明文が
入館パンフレットに
書かれていたので読んでみます。
※
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将である蒲生氏郷(がもううじさと・1556~1595)は、近江日野城主、伊勢松坂城主、最後に陸奥黒川城主をつとめました。
黒川城は会津若松の城である鶴ヶ城の旧称です。
蒲生氏郷は織田信長の娘婿で、この時代を代表する文化人でした。
特に茶道に親しみ、のちの利休七哲の筆頭にあげられるほどでした。
1591年の2月千利休が秀吉の怒りに触れて死を命じられた折、蒲生氏郷は利休の茶道が途絶えるのを惜しんで、その子、千少庵(せんのしょうあん・1546~1614)を会津にかくまい、徳川家康とともに千家再興を秀吉に働きかけました。
その結果、1594年と推定される「小庵召出状」が出されました。
千少庵は京都に帰って千家を再興し、千家は一子、宗旦(そうたん・1578~1658)に引き継がれました。
そののち、宗佐、宗室、宗守の三人の孫によって表、裏、武者小路の三千家が興され、茶道隆盛の基が築かれました。
千少庵が会津にかくまわれている間、蒲生氏郷のためにつくったと伝われているのが茶室「麟閣」であり、以来、鶴ヶ城内で大切に使用されてきました。
しかし、戊辰戦争(明治元年~明治2年)で会津藩が敗れ、鶴ヶ城が取り壊される際、石州流会津怡渓派の森川善兵衛は貴重な茶室が失われるのを惜しみ、明治5年に自宅へ移築しました。
平成2年、市制90年を記念して、蒲生氏郷と千少庵ゆかりの茶室を後世へ伝えるため、鶴ヶ城内の元の場所に移築し蘇らせました。
※
三千家の発祥の地であるというには
大げさかもしれませんが、
少なからず会津若松が
千家の茶の湯と深い関りがあることを知り、
ちょっと驚きました。
撞木(しゅもく)造り形式の茅葺屋根。
南面の破風を正面とし、
捨柱を立てた土間庇の中に躙口を設けています。
相伴席(しょうばんせき)付三畳台目の茶室と
水屋および六畳の鎖の間で構成されています。
茶室は三畳の客座をはさんで
点前座と相伴席を対置させた
古田織部好みの燕庵(えんあん)形式。
燕庵との違いは点前座の台目畳を
1尺六寸程度前に出し、
茶道口を点前座の床寄りにあけ、
襖を左の水屋側に引く点、
台目下座床の床脇に入隅の壁ができる点、
床に向き合う下座の壁面、
茅葺の妻部分の壁面が
燕庵では下地窓のところが連子窓になる点、
天井の棹が床指しになる点などがあげられます。
点前座を前に出したのは、
水屋の空間として
最低限の広さを確保するためで、
鎖の間の水屋としても余裕をもたせています。
茶室「麟閣」の点前座。
手斧目をつけた中柱が立ち、
袖壁に横木を入れ、
雲雀棚(ひばりだな)を横木で納めています。
客座二畳と点前座の天井は
蒲天井を一面に張り、
竹二本押えとしています。
躙口側は駆込天井としています。
茶室「麟閣」の床の間と相伴の席。
床柱は千少庵みずから
削ったと伝えられています。
床前蒲天井は点前座と一体となり、
床指しの竿縁天井としています。
床脇に入隅の壁を回しています。
床の間左の相伴席は駆込天井とし
客座とは襖で仕切り
板欄間がついています。
相伴席より見た点前座
六畳の鎖の間
相伴席より三畳台目席を見ます。
躙口から客座を通して点前座を見ます。
茶室の北側外観
茶室の北側外観
寄付
腰掛待合
参考までに燕庵の間取図を記事に加えました。
燕庵の外観
「燕庵」は京都市薮内家の代表的茶室で、
古田織部好みとされています。
会津若松の「麟閣」と似ています。
燕庵の客座と点前座。
会津若松の「麟閣」と似ています。
燕庵の床の間と相伴席。
会津若松の「麟閣」と似ています。
鶴ヶ城のお堀と石垣。
石垣の向こうに廊下橋が見えます。
鶴ヶ城の美しい天守閣
鶴ヶ城は
蒲生氏郷家の舞鶴の家紋にちなんで
鶴ヶ城と名付けられたそうです。
会津若松の若松は、
蒲生氏郷の出身地である
近江日野城に近い蒲生氏の氏神様である
馬見岡綿向神社の参道周辺にあった
「若松の森」に由来するとされています。