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日日日影新聞 (nichi nichi hikage shinbun)

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羊と鋼の森

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森の匂いがした。

秋の、夜に近い時間の森。

風が木々を揺らし、

ざわざわと葉の鳴る音がする。

夜になりかける時間の、森の匂い。


体育館からつながる廊下に出ようとしたとき、

後ろでピアノの音がした。

ピアノだ、とわかったのは

ふりむいてそれを見たからだ。

そうでなければ、

楽器の音だとは思わなかっただろう。

楽器の音というより、

何かもっと具体的な

形のあるものの立てる音のような、

ひどく懐かしい何かを表すもののような、

正体はわからないけれども、

何かとてもいいもの。

それが聞こえた気がしたのだ。


森の匂いがした。

夜になりかけの、森の入り口。

僕はそこに行こうとして、やめる。

すっかり陽の落ちた森は危険だからだ。


「このピアノは古くてね」

「とてもやさしい音がするんです」

「昔の羊は野原でいい草を食べてたんでしょうね」

「いい草を食べて育ったいい羊のいい毛を贅沢に使ってフェルトをつくっていたんですね。今じゃこんないいハンマーはつくれません」

「ピアノの中にハンマーがあるんです」

「こうして鍵盤を叩くと」

トーン、と音が鳴った。

ピアノの中でひとつの部品が上がり、

一本の線に触れたのがわかる。

「ほら、この弦を、ハンマーが叩いているでしょう。このハンマーはフェルトでできているんです」


時間さえあれば僕はピアノの前に立ち、

屋根を開けて内側を覗いた。

八十八の鍵盤があり、

それぞれに一本から三本の弦が張られている。

鋼の弦はぴんとまっすぐ伸び、

それを打つハンマーが

まるでキタコブシの蕾のように

揃って準備されているのを見るたびに、

背筋がすっと伸びた。

調和のとれた森は美しい。

「美しい」も、

「正しい」と同じように僕には新しい言葉だった。

ピアノに出会うまで、

美しいものに気づかずにいた。

知らなかった、というのとは少し違う。

僕はたくさん知っていた。

ただ、知っていることに気づかずにいたのだ。


「 目指す音ですか 」


「 明るく静かに澄んで懐かしい文体、
少し甘えているようでありながら、
きびしく深いものを湛えている文体、
夢のように美しいが現実のようにたしかな文体 」


ぼやけていた眺めの一点に、

ぴっと焦点が合う。

山に生えている一本の木、

その木を覆う緑の葉、

それがさわさわと揺れるようすまで見えた気がした。

ピアノって、

こんな音を出すんだったっけ。

葉っぱから木へ、木から森へ、山へ。

今にも音色になって、音楽になっていく。


自分が迷子で、

神様を求めてさまよっていたのだとわかる。

迷子だったことにも気がつかなかった。

神様というのか、目印というのか。

この音を求めていたのだ、と思う。

十年も前に森の中で、自由だ、

と感じたあのときのことを思い出す。

身体から解き放たれることのない

不完全さを持ちながら、

それでも僕は完全な自由だった。

あのとき、僕のいる世界の神様は

木であり葉であり実であり土であったはずだ。

今は、音だ。

この美しい音に導かれて僕は歩く。


森の中で、熟した胡桃がほとほとと降る音。

木の葉がしゃらしゃら擦れる音。

木の枝に積もっていた雪が

ちょろちょろ流れ出す音。


翌朝早く、森を歩いた。

下草を踏み、エゾマツの赤茶けた幹を撫でる。

梢でカケスが鳴いている。

懐かしい、と感じていることに戸惑う。

忘れていたのか。

心はここを離れていたのか。

風が吹いて、森の匂いがする。

葉が揺れ、枝が擦れる。

エゾマツの葉が緑のまま落ちるとき、

音階にならない音がする。

幹に耳を当てると、

根が水を吸い上げる音がかすかに聞こえる。

カケスがまた鳴く。


「ピアニストになりたい」

「プロを目指すってことだよね」

「目指す」

「プロで食べていける人なんてひと握りの人だけだよ」


「ピアノで食べていこうなんて思っていない」

「ピアノを食べて生きていくんだよ」


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(「羊と鋼の森」の好きな部分を書き繋ぎました)

・・・・・・・・・・・・・・・・・


本屋さんで

「羊と鋼の森」のタイトルをみつけたとき、

この文字に惹かれて本を開いたら、

ピアノの調律師をめざす

青年の物語だと知りました。

ピアノの音楽はよく聴いていても、

ピアノがどのような構造で、

どんなふうにして音を奏でるのか、

ほとんど知りませんでした。

この本を読むことで、

ピアノのことを少しでも

知ると事ができるかもしれないと思い、

買って読みはじめました。

読みはじめたら、

この美しい文章という

森にひきこまれてしまいました。

ちょうど今の時期、

映画にもなっているということで、

仕事の合間をみつけて映画も観てきました。

原作を見事なまでに

美しい映像と音で

表現されていたことに感動しました。



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by y-hikage | 2018-06-22 12:42 | 日影アトリエの本棚 | Comments(0)
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