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日日日影新聞 (nichi nichi hikage shinbun)

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金閣寺の柱

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東京の上野毛の若き造園屋さんが、

修行のために京都の造園屋さんで

働いていたころ、

京都の金閣寺が放火のために焼失した。

1950年の年だから66年前のことだ。

上野毛の若き造園職人は、

縁あって焼失した部材が積まれた中の

一本の柱を譲り受けたそうだ。

京都での修業を終え、

東京上野毛の実家に戻った彼は、

譲り受けた一本の金閣寺の柱を

中心軸に据えて茶室を造ることにした。

茶室は三畳台目の小間と

八畳の広間と待合と露地で構成された。

時は流れ上野毛の土地は様々な事情で

分割しなくてはならなくなった。

分割し手放さなければならない部分に

金閣寺の柱を用いた茶室が建っていた。



2000年(平成12年)ぐらいだったと思う。

次の代の上野毛の造園屋さんから連絡があった。

上野毛に残る茶室を、

どこか移築して継承してくれないかと・・・。

僕はいろいろと頭の中をめぐらし、

千葉県の木更津に設計し建築した

曹洞宗寺院「天性院(てんしょういん)」の

庫裏(くり)を思い浮かべた。

僕の設計によって建築された庫裏が、

完成したのは1994年のことだった。

住職の奥様が茶道の師匠であったので、

もしかしたら

ご興味をもっていただけるかもしれない・・・。

住職夫妻に上野毛の茶室を見ていただき、

さいわい移築が決まった。

茶室は本堂と庫裏に囲まれた中庭に

配置を再構成し移築が実現した。

茶室は「朗月庵」と名づけられた。

金閣寺の一本の柱は、茶室「 朗月庵 」の

床柱として生まれ変わった・・・。

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床柱の黒い柱が

金閣寺の柱。

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「朗月庵」と書かれた扁額。

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三畳台目の室内。

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茶室外観。

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下地窓。

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待合は、本堂に増築するかたちで復元した。

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金閣寺の柱から・・・



天性院庫裏に話を移します・・・。

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千葉県木更津市の

曹洞宗寺院「天性院」の住職は、

僕の幼稚園から高校までの同級生です。

天性院を引き継いだ頃は、

住まう場所もなく住職は本堂の片隅で

小さな水場を設けて生活していました。

若き住職をお寺の檀家さんたちが気遣い、

はやく住まう家(つまり庫裏のこと・・・)を

つくるように働きかけます。

その経緯の中で庫裏の設計を

僕が担当することになりました。

庫裏は最低限の平屋の小さな家になりました。

僕の初めての宗教建築です。

完成したのは1994年なので

22年前のことです・・・。

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庫裏の玄関を見る。

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庫裏の妻面の外観。

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庫裏の玄関。

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本堂と庫裏を結ぶ渡り廊下。

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三間続きの座敷・・・。



天性院・・・。

今、見てもとても懐かしい仕事です。

民家の再生からはじめた

設計活動の中での

初めての新築の木造でした・・・。



ところで、

なぜ天性院の茶室「朗月庵」の

設計を思い出したかというと、

今年の2月の末頃、

設計を学んだ母校「中央工学校」で

学生さんたちの前で

講演をおこなったからです。

講演のテーマは「 住み継ぎ 」。

この講演の資料を作成するために

古い資料を整理していたら

「金閣寺の柱」が思い出されたのでした・・・。


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by y-hikage | 2016-05-02 17:16 | 天性院 | Comments(0)
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