「このへんでいよいよ内田さんの演奏を聴いてみましょう。
三番の協奏曲。僕はこの二楽章の演奏が何より好きなんです。
あまり時間がないので、変則的だけど、二楽章から聴いてみてください」
静かな、たおやかなピアノ独奏で始まる。
小澤
(すぐに)「音が実にきれいだ。この人って、ほんとに耳がいいんですね」
やがてオーケストラが足音を忍ばせるように、そっと入ってくる。
村上
「オーケストラはコンセルトヘルボウです」
小澤
「ホールもいいなあ」
そこにピアノがからむ。
小澤
(深く感心したように)
「しかし日本からも、ほんとに素晴らしいピアニストが出てきましたね」
村上
「この人のタッチはクリアですね。
強い音も弱い音も、どちらもはっきり聞こえる。
ちゃんと弾ききっている。曖昧なところがない」
ゆっくりと間を取りながら、ピアノのソロが続く。
小澤
「ここね。すっと間を取ったでしょ。
これ、グールドがさっき間を取ったのとちょうど同じところですよ」
村上
「そういえばそうですね。間の取り方というか、音の自在な配置の仕方が、どことなくグールドを彷彿させます」
小澤
「うん、たしかに似てる」
ピアノの精緻きわまりない独奏が終わりを迎え、
そこにふっとオーケストラが入ってくる。
絶妙な音楽。二人で同時にうなる。
小澤
「うーん」
村上
「うーん」
小澤
「ほんとに耳がいいんですよ。
音楽的な耳が、この人は」
しばらくのあいだピアノとオーケストラの絡みが続く。
小澤
「今の三つ前のところ、音が合ってなかったな。
光子さんきっと怒ってるんじゃないかな(笑)」
空間に墨絵を描くような、どこまでも美しいピアノの独奏。
端正で、かつ勇気にあふれた音の連なり。
ひとつひとつの音が思考している。
村上
「ここのところが、何度聴いてもいいんです。
どれだけゆっくり弾いても緊張感がまったく途切れない」
そのピアノが終わり、オーケストラが入ってくる。
村上
「ここの入り方、むずかしそうですね」
小澤
「ここ、もっとうまく入らなきゃ」
村上
「そうですか」
小澤
「もっとうまくやれる」
第二楽章終わる。
小澤
(深く感心する)
「いや、これはすごいな。光子さん、素晴らしいです。
何年ごろの録音なんだろう、これ?」
村上
「1994年です」
小澤
「16年くらい前か」
村上
「でもいつ聴いても、まったく古びるところがないですね。
気品があって、瑞々しくて」
小澤
「この二楽章というのはもう、これ自体特別な曲ですね。
ベートーヴェンの中でもほかにこういうものはないような気がする」
村上
「これだけ音楽を引っ張るのには、すごく力が必要みたいですね。
ピアノの方もオーケストラのほうも。
とくにオーケストラの入り方なんか、傍目から見ても大変そうですけど」
小澤
「入り方はむずかしいねえ。
これはもうほんとに、息の取り方がね、大変です。
弦楽器も木管楽器も指揮者も、
全員が同じ息の取り方をしなくちゃならないんです。
これが簡単じゃないんですよ。
さっきなんかも、うまくすっと入れなかったのも、そのへんですよね」
(小澤征爾さんと、音楽について話をする
:小澤征爾×村上春樹 共著 より)
※
僕は音楽についてまったくの素人なのですが、
「小澤征爾さんと音楽について話をする」
の中の小澤さんと村上さんの会話が
なんとなく好きで何度か読み返しました。
ただ残念なことに会話の中に
登場する音楽を読んでも、
頭の中でその曲が流れてくることは
ありませんでした。
音楽が頭の中で流れないどころか、
作曲家と曲名が
一致することもありませんでした。
少し悔しいけれど・・・
まあ音楽に関してはド素人だから、
しょうがないと思っていました。
そう・・・
しょうがないと思ってきましたが、
古本屋で
『 「小澤征爾さんと音楽について話をする」
で聴いたクラシック』 で見つけた時は、
救われる思いがしました。
このCDを聴きながら本の中での
二人の会話を読んでいると
本の世界の中に入っていけるような
気分になれるのでした。
そのかわり、仕事は完全に中断いたします。