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日日日影新聞 (nichi nichi hikage shinbun)

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吉村順三記念ギャラリーで、吉村順三の言葉に出会いました。

先日の日曜日に吉村順三記念ギャラリーに行ってきました。テーマは吉村順三の作品の中でも特に好きな建物「八ヶ岳高原音楽堂」でした。模型を観察したり、図面を見たりしていて、ふと吉村順三が毎日芸術賞(1988年)を受賞いた時に語った文章に目が釘づけになりました。長文ですが、共感するところが多大なのでここで紹介することにします。
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吉村順三 1988年・毎日芸術賞受賞の言葉
人間は自然の一つのパーツだと私はつねづね思っている。自然の中で、人間は自分の心に従って行動する。人が住まい、人が流れ、たたずみ、すわる場所を考えるとき、決まった方法論などはない。絶えず人間という原点に立ち返って自然に溶け込む生活を考えるのが私の建築デザインのはじまりである。
最近、特に感じることは、この自然と人の動きに対する感覚が、物質的になりすげていなか、合理的効果のみを追い、ゆとりが抹殺されていないか、造形にとらわれ過ぎていないか、ということである。論理や計算だけでは真の生活はつかめない。それは、もっと精神的なものではなかろうか。建築は、はじめに造形があるのではなく、はじめに人間の生活があり、心の豊かさを創りだすものでなければならない。そのために、設計は、奇をてらわず、単純明快でなければならない。
もっと具体的に話そう。たとえば受賞対象の八ヶ岳高原音楽堂。八ヶ岳は、私が中学二年の時に訪れて以来、なじみ深い、私の愛する自然の一つである。この高原に、私の持論を精いっぱい表現しようと試みた。現地で伐採した唐松の柱や梁、杉板を型枠として打設したコンクリートの柱、昔から左官材として使われてきた漆喰の壁などによって、それぞれが在るべき姿で一つの空間を構成しようと努めた。また八ヶ岳高原の大自然の中に、建物が目立ち過ぎず、かと言って媚びずに存在することを望んだ。銅版葺きの大屋根とアルミとガラスによる二つのトップライトは、そのためのものである。
人々が、建物を内から体験し、外から眺め、内と外とを自由に行きかい、言葉を交わすさまは、まことに美しい。
この十月、毎日新聞社のモネ展によってオープンした茨城近代美術館設計の際も館内外を自由に行きかいできるよう心を砕いた。館内のどこにいても自分の居場所がわかり、人の流れが建物の中心、ゆとりあるエントランス大ホールに集中するように配慮した。
八ヶ岳の音楽堂は、規模としては小ホールである。しかし、大勢の人が集まり、アーティストを遠くから眺め、電気で増幅された音を聞くコンサートに飽きた人々にとって、自然をバックに、少人数で演奏家の息づかいまで感じられる音楽会は、新鮮な感動を与えてくれることだろう。
音楽堂にしろ美術館にしろ、先々、人の動きがどうなるか、それを見るのが楽しみである。
将来を洞察し、将来に責任を持つのも建築家の仕事である。そのためには、長持ちする建築でなければならない。(以下省略)
by y-hikage | 2011-05-30 19:40 | 吉村順三ギャラリー | Comments(0)
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