大工棟梁田中文男さんから受けた
強烈なパンチは駒込の家でのことでした。
僕は1996年1月から
駒込の家の実測調査を
無名でありながら名建築と呼べるほどに
自然の流れでできた大きな池があり、
その家を囲むように母屋と
茶室、待合が建てられており、
表通りに面して
母屋は全体的に
建築家・吉田五十八の影響を受けており
実測調査を僕は依頼されました。
本格的な数奇屋建築の実測調査は
はじめてのことでした。
数日後に田中文男さんに
建物を見ていただくことになりました
(多忙を極める田中文男さんが
時間を割いていただけること自体が
住宅建築の編集長(当時)である
立松さんと植久さんにも
来ていただけることになりました。
関係者一同そろい、
この応接間で田中さんの
数奇屋大工の
木村清兵衛の話がでたときに、
僕は何を思ったのか
「木村清兵衛の後継者は
どこで事務所を
かまえていらしゃるのでしょうか」
天が割れるのではないかというほどの声で、
この応接間から逃げ出すか、
このテーブルの下に
もぐりこみたい気持ちに真剣になりました。
あまったれた仕事に対する態度。
簡単に情報を得ようとする
向学心の欠落。
概ね田中文男さんは
設計者に対して厳しい態度で接しました。
そのことを身体で感じた瞬間でした。
僕が茶室を実測しながら書いた
野帖(現場で描く図面)でした。
野帖なんか作ってんじゃねえよ!
百分の一で十分だ!
おまえあほか!
時計読み間違えてんじゃねえか!
田中文男さんの体がどんどん大きく見えてきて、
馬鹿でかい手で
ぶん殴られるのではないかと
まじめに思いました。
お話が続き帰られました。
寒い一日でした。
田中文男さんは、黒い革ジャンを着て
帽子をかぶっていました。
帰り際、見送る僕に振り返り
「たいへんな仕事だ!死ぬ気でやれよ!」
と一言、言われて
表門をくぐって帰られました。
田中文男さんの
「やるなら死ぬ気でやれ!」
この一言が今でも頭の中を響いています。
1996年の9月まで
駒込の家の実測調査は続きました。
それまで共同で経営していた
事務所を離れ、
日影アトリエを設立したのは
その年の6月のことでした。
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